さくら ー考察ー


amazarashiのミニアルバム「アノミー」に収録されている楽曲「さくら」。


僕がamazarashiにのめり込むきっかけになった曲だ。


季節も春、もうすぐ桜も咲くこの時期に、という洒落を効かせながら、

今回はこの曲を考察していく。



考察に入る前に、この曲の背景から説明する。


amazarashiの中心人物、秋田ひろむは今でこそ青森に住みながら楽曲を作り、

レコーディングやライブの度に東京やその他都市を行き来する、という生活をしているが、

amazarashi結成よりももっと以前、

バンドでの成功を目指して、地元の仲間と上京してバンド活動をしていた過去がある。


この曲「さくら」は、ひろむが東京で暮らしていた時期を思い出しながら作った曲である。


本人曰く、

「夢、友情、恋愛、わいなりの青春の歌かもしれません」

とのこと。


工事現場で日払いのバイトしながら、

当時のバンドのボーカル(当時、ひろむはギターとコーラス担当)と

ビル解体現場の屋上に上って、隠れてさぼっていた情景から始まる。


ちなみに、このバンドのボーカルに焦点を当てた曲として

「ハルキオンザロード」という曲もあるのだが、

これはまた別の機会に考察していけたらと思う。


また脱線してしまった。

重症かもしれない。


さて、考察を始めていこう。



ーーーーー

その時の僕らはといえば ビルの屋上で空を眺めているばかり

バイトを抜け出し 汗と埃にまみれた 取り留めのない夢物語

互いに抱えてるはずの ちゃちな不安は 決して口には出さない約束

中央線が高架橋の上で おもちゃみたいに カタカタ なった

ーーーーー


歌詞の最初を読むだけで、

この回想部分が如何にひろむの中で特別かが分かる。


僕自身も経験があるが、

バイトや仕事、学校の授業、その他イベントごとであっても良いが、

その場を抜け出す、という行為には

どこか好奇心をくすぐられるものがある。

いわゆる背徳感であろう。


他の誰もしていない未知へ足を踏み出すこと。

夢物語だ。


そこに一緒にいる仲間がいるとなると

そこには共犯関係という、

複雑な感情が芽生える。


そして、この描写からは

もう何回も二人で抜け出したのだろうことが暗示されている。


二人の間には友情一言では語りきれない何か特別な感情があったようにも感じる。

必要以上を語らなくても、お互いに気持ちが通じ合う、そんな関係。


そんな二人の空間に不意にカタカタと音を鳴らす中央線。

おもちゃのような、どこか現実味を帯びない音に

幼い頃の二人には聴こえていたのかもしれない。


ーーーーー

なぁ 結局僕らは正しかったのかな? あんなに意地になって

間違ってなんかいないって やれば出来るって

唇噛み締めて夜に這いつくばって

その闇の中で言葉にならない嗚咽のような叫びは

千川通りで轢かれていた カラスの遺体みたい 痛い 痛い

ーーーーー


仲間と揃って上京し、

バンド活動を続けていく中、

成功する兆しが見えずに、

心と身体は肉体労働ですり減っていく。

「僕らは正しかったのかな」なんて疑心暗鬼になって、

間違ってない、やればできるって、

夜中に歯を食いしばりながら自分たちに言い聞かせるその姿は、声は、

思い返す今でも痛々しく、苦々しい。


ーーーーー

ふざけんな ここで終わりになんかすんな 僕等の旅を「青春」なんて 名づけて過去にすんな

遠ざかる足音に取り残された 悔し涙は絶対忘れないよ

踏みつけられたフライヤー拾い集める 代々木公園も気付けば春だった

苦笑いの僕等 舞い落ちる 

ーーーーー


「ふざけんな」

自分に言い聞かせる。


あの頃の僕たちを青春と呼んでしまったら、その瞬間にそれらは過去になってしまう。

過去になった途端に、驚くほど実感は遠のき、その輝きは失われる。

嫌だ、忘れるもんか。

あの時流した悔し涙は、その輝きは、今でも鮮明に覚えている。


踏まれたフライヤーを拾い上げる悔しさに、

それでも仲間に不安は口にしない、それが約束。

なんともないと、寂しく苦笑いを浮かべた僕らの間に、桜が舞い落ちる。


気がつけば、春が来ていた。


ーーーーー

日当たりが悪くなるから 窓の外にある大きな木が嫌いだった

春になって 花をつけるまで 僕はその木が 嫌いだったんだ

今になってはどうでもいい話だけれど なんかちょっとだけ後悔してるんだ

ほんとにどうでもいい話だったかな ごめんな

ーーーーー


場面が変わる。

部屋の窓を遮る、大きな木。

それが桜の木だったことは言うまでもないが、

花が咲くまで、僕はその木をうっとおしく思っていた。

どうでも良いような、

どうでもよくないような。

ただそう思ってしまったことに、なぜだか後悔を感じている。


ごめんな。


ーーーーー

駅前のロータリー 夕焼けが悲しい訳を ずっと 考えていたんだ

終わるのが悲しいか それとも始まるのが悲しいか 街灯がそろそろと灯りだした

つまりは 終わりも始まりも同じなんだ だったらこの涙に用はない さっさと 失せろ

胸がいてーよ いてーよ

ーーーーー


夕焼けを見ていると、どこか儚いような悲しいような気持ちになってくる。

それはなぜなのか。

1日が終わってしまうことへの焦りか、一人の夜が始まってしまうことへの苛立ちか。

そうこうしているうちに駅前の街灯が灯り出す。

よく考えれば、何かが終わるってことは、別の何かが始まるってことでもあるのかもな。

なら、終わってしまったことに対する、この涙にしがみつく理由はない。

さっさと失せろ。

そう言い聞かせていくうちに胸が締め付けられていく。


ーーーーー

一人の部屋に 春一番の迷子 二人で選んだカーテンが揺れてます

どうせなら 荷物と一緒に この虚しさも運び出してくれりゃ良かったのに

何もなかったように僕は努める 最後に君が干してった洗濯物

なんでもなく 張り付いた 桜

ーーーーー


ひとりぼっちになった部屋で、あの桜の木が遮る窓のカーテンが寂しそうに揺れている。

このカーテン、そういえば二人で選んだんだっけ。

君が出ていくときに、荷物と一緒に

この虚しい気持ちも運び出してくれていたらどんなによかっただろう。


あの時、苦笑いしたのと同じように、

僕は何もなかったんだと努める。


君が最後に干して行った洗濯物に、春一番の迷子。

桜の花びらがついていた。


ーーーーー

過ぎ去った人と 新しく出会う人 終わりと始まりで物語りは進む

だとしたら それに伴った悲しみさえ 生きていく上でのルールだから

投げ捨ててきた涙拾い集めて 今年も気付けば春だった

僕は 歌う 歌う 歌う

ーーーーー


「終わりと始まり、出会いと別れで人生が進んでいくとするなら、

 それに付随する悲しみは受け入れなければならない、

 それなら、泣きじゃくりながらでも前に進めたらそれでいいじゃないか」

ー音楽ナタリーのインタビューより抜粋ー

それまで投げ捨てて来た涙を、悲しみを拾い上げて、

格好悪くても、泣きじゃくりながら僕は歌う。


そういや今年も、もう春だ。


ーーーーー

さくら さくら 今でも さくら さく 消えない

さくら さくら 僕等の さくら さく 物語

ーーーーー


悔し涙は忘れない、消えることはない。

これが僕らの物語。

桜の咲く季節の物語。


〜おしまい〜


一番と二番で場面が変わるところに注目したい。

一番では、僕らがバイトで身を削りながらバンド活動をしていた様子が

二番では、一緒に暮らしていた人との別れがそれぞれ描かれている。


一緒に暮らしていたのが、誰、と明記されていないので推察になるが、

当時付き合っていた彼女と考えるのが妥当かもしれない。

ひろむが「夢、友情、恋愛、わいなりの青春の歌」と言っていることから、

一番で夢や友情を、二番では恋愛を、それぞれ描写しているのだろう。


この曲でひろむが言いたいことは、

Cメロ部分の考察に荒々しくもインタビュー記事の抜粋を載せたのだが、

まさにこれだろう。


人生は何かの始まりと終わりを繰り返している。

学校生活、アルバイト、恋愛、仕事、家族、命。

そうした連続の中で、別れはいずれやってくる。

そこに悲しみが伴うことは不可避であり、生きていく限り、

この悲しみは受け入れなければいけない。


だから悲しみを受け入れて、泣きながらでも、

必死に生きて、前を向いていけたら、それで十分じゃないだろうか。


そんなことを桜の美しく儚い情景とともに見事に歌い上げる。


本当に綺麗な曲だ。



ここで対の詩も見ていこう。


ーーーーー

僕らは、望んだことの半分も成し遂げられないまま

大人になった

それでも、まだ終わっていないよ

まだ息はしているし

走ることだって出来る

ーーーーー


僕らは生きていく中で

いろんなことを望み、

その大半は成し遂げられないまま大人になった。


それが絶望を伴うくらいのものだったとしても、

それで終わりじゃない。

まだ僕らは前を見て生きることができる。

その可能性がある。


ーーーーー

あれから学んだことも多いし

それが武器になる事だって知っている

必死になって転んだ時ほど

滑稽だって事も知っているし

笑われる事が、傷つくに値しない事も知っている

ーーーーー


あの絶望から、学んだことはたくさんある。

今思えば、あの経験が僕を強くもした。

必死に走れば走るほど、

つまづいた時には大きく転げるものでその姿がどんなに滑稽か僕らは身を以て知っている。

だが、それで笑われても傷つくには値しないことも僕らはよくわかっている。


ーーーーー

唯一つ

諦めたってだけじゃないか

ーーーーー


この絶望も

今まで経験して来た数ある中の諦めのひとつにすぎないじゃないか。


ーーーーー

いずれにしても立ち去らなければならない

あるいは「旅立つ」に変えてもいいし、

「逃げ出す」でも別に構わない

好きにしたらいいよ

君の都合が良いように


僕らに必要な言い訳を早く選んで

ここじゃないどこかへ行く為に

ーーーーー


どちらにせよ、諦めたのであれば

それにいつまでもしがみついていてはいけない。

そこからできる限り、早く立ち去るべきだ。

旅立つ、でも、逃げ出す、でも呼び方は君の都合のいいようにしたらいい。

どんな風に呼ばれようと、それは傷つくに値しないのだから。


さあ前を向いて、また新しい望みに向かうんだ。


〜おしまい〜


対の詩は過去への決別がテーマになっている。


意識したいのは「諦めること」についてだ。

諦めることが悪いとは言っていないが、かといって良い、とも明記されていない。

何かを望む時、それを諦めないのは立派だし、むしろそうであるべきなのかもしれない。

だが、時として、悔しくても諦めなければいけない、そういう時があるのも事実だ。


その立場に立った時、

その悔しさに未練を抱いていつまでも再スタートできない人がいる。


諦めること自体は悪いことじゃない。

諦めたあと、そこにいかにして区切りをつけるかが大事である。


気持ちのけじめなんて、すぐにはつけられないかもしれない。

むしろ思い返すことだってあるだろう。

だが、それは後の祭りだ。

今は新しい望みを探して、前を向くべきだ。

そうやって物事はようやく進んでいくんだ。


歌詞と対の詩には、

当然だがやはり通じる部分がある。



僕もつい最近、諦めてしまったことがある。

気持ちはそれに縛られつつあったのだが、

新しい目標を見つけて前に進まないといけないのかもな。

…なんて思った。笑


さて、「さくら」の楽曲考察もここらでおしまいにしようか。



そして今までの話とは打って変わるのだが、

気が付いたことがある。

楽曲考察の仕方がテンプレート化しつつあるのだ。


楽曲の紹介(収録アルバムや楽曲の背景)

歌詞とその解釈、その後、考察

対の詩とその解釈、その後、考察


みたいな。


もちろんこれに固定するつもりもないのだが、

今のところ、有用なやり方かもしれない。


ルールを作ると例外対処ができなくなりがちだ。

こういう、楽曲考察なら別かもしれないが、ルールは創作の壁になりうる。


だからあえてこの方法に固定はしないし、

これからもいろんな方法を試していこうと思う。

自分なりの解釈や感想とか、現在の自分に重ねたりなんかも、どんどんしていこうと思う。

まぁ考察と言っても僕からすれば日記の代わりみたいなものだし。

好きにやらせてもらう。


この方法はあくまでやり方のひとつだ、指標だ、参考だ。

それを頭に留めながら、また今度も楽曲考察、していこう。


というか、楽曲考察以外にも何かしたいな。

その何か、をまた探さなくちゃいけないな。


それでは。


ここじゃない、どこかを探す。

amazarashiの楽曲考察がメインです。 思考の至らない点、過度な深読み、勘違いなどなど 未熟な部分は多いと思いますが、 自分なりに努力して成長していくので 温かい目で見守っていただけると嬉しいです。 気ままに更新していきます。 もし気が向いたら、コメントやメッセージをいただけると一層やる気が出ます。 よろしくお願いします。

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